皇居、すなわち昔の江戸城の本丸、二の丸、三の丸の一部は、皇居東御苑として一般に無料開放されています。
この本丸跡には、天守台も残っています。
そう、江戸城には当初、天守があったのですよ。
江戸の初期になんどか建て替え、最終的には5層6階の立派な天守となっていました。
が、4代将軍家継の時代に、明暦の大火といわれる江戸の大火事で消失。
当然、再建の動きがあったものの、重臣保科正之(ほしなまさゆき)の提言により、このような大金を要する事業は見送りに。
「天守は実用上は必要なく、それよりも街の復興に力をそそぐべき」というわけです。
結局、江戸幕府の江戸城に天守があったのは、初期の50年間だけでした。
保科正之は、3代将軍家光の異母弟。
会津藩に封じられ、これが会津松平家となりました。以後、ずっと幕府に忠義を尽くします。
幕末、最後の藩主となった松平容保(かたもり)も、官軍に最後の最後まで抵抗しました。